新聞に掲載された記事を読んでの感想

この記事を掲載するにあたって、ご自身の経験をお話ししてくださった当事者の女性の方に敬意を表すると共に、色々な反響があることを覚悟の上でお話くださった勇気に感謝したいと思います。

乱反射する言葉

このようなネット記事は視聴者の目を引くために過激な見出しを付けられることが多く、今回も「トイレに置き去り」という文言が使われました。

トイレという用を足す場所に生まれたばかりの赤ちゃんを置き去りにすると聞くと、子を置いた母親にマイナスなイメージを持つことが多いと思いますが、きっとこの子を手放した女性は雨風に当たらず寒くない屋内で、新しいお母さんとなるであろう女性が現れそうな場所・多くの女性の目につく場所ということでこのトイレを選ばれたんだと思います。

せめてもの思いでこの女性はこの場所を選ばれたのでしょうが、いざ事実関係を文字にするとそれぞれの言葉が持つイメージが合わさって、ショッキングでマイナスな印象となってしまうのが誰が悪い訳ではありませんが酷だなぁと感じました。

コメントについて

またこの手の記事となると「育ての親に失礼だ」とか「育ての親にきちんと親孝行しなさい」とか、「今更そんなことを知ってどうなるの」という類のコメントが必ず付けられます。私もこれまでに何度もそう言った言葉をかけられてきました。

そういった言葉をかけた人たちは悪意があるわけでも、決してこの女性の悩みや苦しみを軽視しているわけではなく、本当に些細な気持ちで言っているのだと思います。きっと私も何気なく口にした一言で知らぬうちに人を傷つけて来てしまったことでしょう。

養子問題や血縁関係問題に関係なく、世に蔓延る様々な問題において、この「知らないうちに誰かを傷つけてしまっている」ということが普通の人と悩んでいる当事者との間にある大きな壁だろうなと私は思っています。

誰しも全員が相手の気持ちが理解出来るわけではないので、仕方がない部分はあるのでしょうが、「育ての親に失礼だ」とか「育ての親にきちんと親孝行しなさい」とか、「今更そんなことを知ってどうなるの」という類のコメントに「いいね」がたくさん付いているとやはりこれが大衆の意見なのかと少し悲しい気持ちになります。

育ての親に感謝すること。親孝行をすること。今の生活が幸せだと思うこと。それはもっともなことですが、人と違う過去があったからそうしなければならないというのは違うと思います。

過去に起きたことと向き合うことは大切ですが、それは育ての親のためではなく、これからを生きる自分自身のためだと私は思っています。私は人間の器が小さいので生まれ方や育ちのすべてを背負って生きていく覚悟や勇気はありません。なんでこんな人生なんだろうと思う日もあります。

自分のアイデンティティ、私はこういう人だ、というのは他の人が決めることではなくその人が決めることです。こういう生まれがあったから、育ちがあったから、と人生を狭めたくないと私は思い、日々自分に問いかけています。

自分の人生を生きるとは

この当事者の女性が仰っている「自分自身がどこから来たのかわからない」という地に足がついていない感覚に痛いくらい共感します。

きっと誰しもが孤独や寂しさを感じながら生きているのでしょうが、その孤独や寂しさとはひと味違う「自分はどこからか湧いて出てきたのではないか」「本当に生きているのか??」という不安に感覚はなかなか言葉にすることができません。

他の人から見たら滑稽であっても、意味なんてあるのかと問われたとしても、過去と向き合うことは決して無駄ではないと私は思います。自分自身が「もういいや」と心から思えるまで調べたらいいと思います。人から見て意味がないことでも自分にとって意味があると思うなら気が済むまで徹底的に。それが「自分の人生を生きる」ということではないかと思います。

出自の問題は人権問題である

自分の境遇を語る人が近年増えて来ていますが、皆口を揃えて言うのは「自分の出自を知ることの難しさ」でしょう。私も体験しました。

少しずつではありますが「出自を知る権利」という言葉も浸透し始め、人権問題であるということが認識されるようになってきました。出自とは「その人がその人であるために必要なもの」だと思います。近年すぐにすべての制度が整うことは難しいと思いますが確実に少しずつ動いているように感じています。

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